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声失って編み出した「手話落語」――桂福団治、40年の軌跡
上方落語界の大御所・桂福団治(78)。テレビ・ラジオで10本以上のレギュラー番組を抱えていた30代の時、一時的に喉の病気で声が出なくなり、仕事も失った。「なんとか自分の芸を残したい」――。その思いで取り組んだのは「手話落語」。それ以来約40年、第一人者として、弟子たちとともに活動の幅を広げている。福祉としてだけではなく、手話落語を確固とした文化へ。福団治の軌跡を追った。(三重テレビ/Yahoo!ニュース 特集編集部)
上方相聲界的領袖・桂福團治(78)。在電視及廣播,在他30歲,擁有10台以上日常節目時,暫時性的喉嚨生病導致無法發出聲音,失去了工作。
「不管怎樣都想要把自己的技藝留下」――。那份想法致力於的是「手語相聲」。
從那時以來的40年,作為第一人,和徒弟們一起擴展活動範圍。不僅僅是散播福祉,朝向確立手語相聲的文化。追蹤了福團治的軌跡。
40年続けた「手話落語」
体育館に特設された高座に福団治が上がる。披露するのは「手話落語」。両手を大きく使った手話とともに張りのある声が響くと児童の笑いがどっと起きた。
津市立高茶屋小学校で開かれた落語鑑賞会。福団治は児童に理解できるように十分な間を取りながら演じる。演目が終わると、使った手話の一部を解説して、児童たちにも実践してもらう。
持續了40年的「手語相聲」
福團治登上了在體育館特別設置的高台。展現的是「手語相聲」。每當表現出大幅度兩手的手語伴隨著有力的聲音時,小朋友們就會一同的歡笑。
在津市立高茶屋小學舉行的相聲鑑賞會。福團治一邊拿捏能夠讓小孩充分理解一邊演出。演出節目結束後,解說使用到手語的一部分,也讓小朋友實際練習。

(撮影:三重テレビ)
全国各地の学校やショッピングモールなどで「手話落語」を披露する取り組みを福団治はもう40年近く続けている。きっかけは、喉の病気で一時的に声が出なくなったことだった。福団治は述懐する。
「声が戻らなければ、今まで培ってきた芸がゼロになってしまう……そうなれば、死んでも死にきれない。なんとか自分の芸を生かす方法はないかという思いが、手話と結びついたんです」。
福團治致力於在全國各地的學校及購物中心等表演「手語相聲」,已經持續將近40年了。契機是當初因喉嚨生病,造成一時無法出聲。福團治表示。
「要是聲音沒有辦法回復的話,至今培養的技藝通通都要歸零了......如果變成這樣的話,就是死也無法釋懷。不管是否有方法都要讓自己的技藝活下去的想法,和手語結合在一起了」

(撮影:宗石佳子)
声と仕事を失って
桂福団治(本名:黒川亮)は1940年、三重県四日市市の造り酒屋に生まれた。三代目桂春団治の華麗な芸風に魅了され1960年に入門。「一春」「小春」を経て1973年、四代目桂福団治を襲名した。
大阪・道頓堀角座(かどざ)での桂枝雀(しじゃく)、笑福亭枝鶴(しかく)とのトリプル襲名は大きな話題となり、福団治はテレビ・ラジオのレギュラー番組を10本以上抱えるようになった。1975年公開の映画「鬼の詩」(藤本義一原作)では主演を務め、芸能界で大きく飛躍しようとしていた。
失去了聲音和工作
桂福團治(本名:黑川亮)在1940年,在三重縣四日市市的釀酒廠出生。被第三代的桂春團治華麗的藝風迷住,而拜他為師。經過「一春」「小春」,在1973年繼承了第四代桂福團治的襲名。
在大阪・道頓堀演藝場同時繼承桂枝雀、笑福亭枝鶴的三重襲名成為廣大的話題,福團治變得能在電視、廣播的日常節目中,一次擁有10個以上的日常節目。1975年上映的電影「鬼之詩」(原作藤本義一)裡擔任主演,在藝能界中大幅度的飛躍。

(撮影:宗石佳子)
そのさなかに突然、暗雲がたちこめる。1977年、声の調子が悪くなり喉にポリープが見つかった。手術して3カ月間、声が出なくなったのである。持っていたレギュラー番組のほとんどを手放さざるを得なかった。福団治はこの時の気持ちをこう振り返る。
「やっと勝ち取ったレギュラーだったのに。とにかく、体の一部が削り取られる思いでした。でも落語というものを捨てたくはなかった……」
福団治は、手話教室を開くなど聴覚障がい者をサポートする施設「大阪ろうあ会館」の紹介でろう学校の教員と出会う。熱心に依頼すると、その教員は出勤前の朝7時頃から手話を教えてくれたという。3カ月で800語くらいをマスターした。
在這人生高峰期,突然烏雲壟罩。1977年,聲音的情況突然惡化,喉嚨也發現了息肉。做了手術後,3個月期間變得無法發出聲音。也不得不放棄大部分擁有的日常節目。福團治這樣回顧那時的心情。
「明明是好不容易爭取到的節目。總而言之,就如同是身體的一部分被剝奪一般。但是我並沒有想要就此放棄相聲......」
福山治,在開設了手語教室等聽覺障礙者輔導的設施,「大阪聾啞會館」的介紹下,遇到了聾學校的教職員。一心一意拜託他,那位教職員在每天出勤前的早上7點開始教導手語。3個月800個詞的程度精通了。

(撮影:宗石佳子)
手話を学んだのは、何としても自分の芸を残したいという思いだった。一方で、手話を学ぶ過程で聴覚障がいのある人たちとふれ合い、彼らに落語の面白さを伝えたいという気持ちも生まれていた。
声が出るようになって福団治は高座に復帰。一緒に手話を学んでいた聴覚障がいのある男子高校生が福団治の落語を聞きに角座を訪れた。その時、多くの観客は笑っていたが、彼だけはキョトンとしていたという。
なんとか彼を笑わせられないか――。福団治は落語に手話を取り入れようと、試行錯誤を始めた。しかし、落語はもともと音声を軸に笑わせる「聴覚芸」。手話の導入は誰もやったことがない。
例えば手話の特性からくる難しさがある。手話は、さまざまな言葉の意味を手の位置や形、動きなどの組み合わせで伝える。だから同音異義語を表現することができないのだ。
學習手語,不論如都想要留下自己的技藝的想法。另一方便,學習手語的過程,與其他聽覺障礙的人互相接觸,產生了想要傳達相聲有多有趣的心情。
變得能夠發出聲音後的福團治回到了高台。當初和福團治一起學習手語,某位聽學覺障礙的男高中生,為了聽福團治的相聲而到了演藝場。當時,大部分的觀眾都在笑,只有他一個人呆然若失。
不管怎麼樣都不能讓他笑嗎――。福團治決定即使把手語結合到相聲之中,也要不斷嘗試錯誤。但是,相聲本身就是以聲音為主讓人笑的「聽覺藝」。引進手語這種事沒有任何人做過。
舉例來說,要操縱手語的特性十分有難度。手語,拼湊手的位置和形狀、動作等來傳遞各種話語。因此無法表現同音異義詞。

(撮影:宗石佳子)
となると、だじゃれでオチをつける、いわゆる「地口(じぐち)オチ」は伝わらないという。著名な古典落語の演目でも「肝心の心棒(辛抱)が狂ってます」(悋気の独楽<りんきのこま>)、「楊貴妃(ようヒヒ)に似ています」(猿後家)といった地口オチがある。
「内容(ストーリー)で笑わせなければならないんです」と福団治は話す。
独学で研究を重ね、時には喫茶店に男子高校生を呼んで見てもらうこともあった。
「ある時、その彼がワッと笑ってくれたんです。『受けた!』と思いました。それがきっかけで落語を手話で作り替えては彼に見せ、ネタが三つ、四つと増えていったんです」
這樣的話,用雙關來做結尾,也做事說無法傳遞「雙關結尾」。著名的古典相聲節目中也有「關鍵的核心(耐心)故障(發狂)了」(悋気の独楽<りんきのこま>),「長得像楊貴妃(像狒狒)」(猿後家)這樣的雙關結尾。
「不用內容(故事)讓他們笑不行」福團治說。
自學不斷重複研究,有時也曾在茶館叫男高中生來看看。
「有時候,他會哇的笑出來。『懂了!』。那個作為契機,重新用手語改造相聲給他看,梗也多了3個、4個」
親子の涙が押した背中
1980年、手話落語を初めて披露する機会が訪れる。会場は奈良県文化会館。福団治が落語に手話を取り入れていることを聞きつけた奈良県内の福祉関係者からの依頼だった。
観客は約1000人。そのうち聴覚障がい者が約2割を占めていた。ほとんど誰も見たことがない手話落語の初披露とあって、テレビ局や新聞社も数多く取材に来ていた。福団治はこの時、一抹の不安を感じていたという。それは、伝統を重んじる落語界の反応だ。
「何百年の伝統ある“聴く古典芸”を、“見る芸”に勝手に作り替えたら(落語界を)クビになるのと違うやろか」
被母子的眼淚推了一把
1980年,初次展現手語相聲的機會到來。會場位在奈良縣文化會館。委託是來自聽說福團治把手語結合到相聲中,奈良縣的社工。
觀眾約1000人。其中聽覺障礙者占了約2成。由於是幾乎沒有人看過的手語相聲的初次表演,電視台和新聞社多數也為了取材而來。福團治在這時,感到了一絲的不安。那是因為,累積了傳統的相聲界的反應。
「把持續幾百年傳統的"聽的古典藝術",自作主張的改成了"看的藝術"的話,難道以為不會被(相聲界)開除嗎」

(撮影:宗石佳子)
しかし、聴覚障がい者に楽しんでもらいたいという気持ちが上回った。
小噺や落語「時うどん」などを必死で演じた。身ぶり手ぶりをいつもよりオーバーにしたこともあり、大きな笑いが何度も起こった。気付いたら予定時間を30分も過ぎていた。
舞台の幕が降り、福団治が楽屋に戻った時、8歳くらいの男の子の手を引いた母親が訪ねてきた。男の子は福団治に握手を求め、母親はこう言ったという。
「この子は声が出ないし、耳が聞こえないんです。珍しい手話落語を見たいと言うので連れてきたら、この子、私の袖を引っ張って笑って……。こんなに笑った顔を見たのは初めて。息子の喜んでいる姿を見せてもらって、ありがとう……」
母親は福団治の手を握って涙ぐんだという。
「大きな励みになりました。喜んでもらってよかった。クビになっても続けていこうと思ったのは、このお母さんの言葉でした」
但是,想要讓聽覺障礙者們得到歡樂的心情贏了。
小故事和相聲「時間烏龍」等全力的演出。比平常更超過的比手畫腳,廣大的笑聲出現了好幾次。發覺時早已比預定時間多出了30分鐘。
舞台的布幕降下,福團治回到後台時,牽著8歲左右的男孩的母親走了過來。男孩希望能和福團治握手,母親則是這麼說了。
「這個孩子不能講話,耳朵也聽不到。說想要看稀奇的手語相聲就帶他來看了,他拉著我的袖子笑......。這樣的笑臉我還是第一次看到。讓我看到我兒子喜悅的樣子,謝謝你......」
母親含淚握著福團治的手。
「這成了我很大的鼓勵。讓他們感到喜悅真的是太好了。就算被開除也要繼續下去的想法,就是這位母親的這句話給我的」

(撮影:宗石佳子)
「手話落語教室」を開く
1981年には「手話落語教室」を開いた。教室では障がいの有無を問わず生徒を受け入れた。
ある日、福団治は自身の体調が悪く教室を休講にしようとした。聴覚障がいのある生徒の家に休講を伝える電話を掛けたところ、生徒の母親が話す電話口の向こうから父親の声が聞こえてきた。
「うちの息子、まだ手話落語みたいなもんやってんのか。もう習いに行かせるの、やめとけ! 息子は見せ物やないんや」
福団治は振り返る。
「それまで“ええことしてますな”と言われてきたけど、反対してる家族もいるんやと知りました」
一方で「無料で教えてんのに何でそこまで言われなあかんねん」という思いもあり、「もうやめたろか」という気になった。教室を施錠しようと鍵を取りに行くと、その生徒が待っていた。ニコニコ笑って「先生!」と手を振る。
開設「手語相聲教室」
1981年,「手語相聲教室」開設了。教室不管學生是否有聽覺障礙都會接受。
有一天,福團治因為身體不適而決定停課。在傳遞停課訊息給一名聽覺障礙學生的家裡時,從學生媽媽的電話口那裏聽到了父親的聲音。
「我家的兒子,還在學手語相聲之類的東西啊。不准再去學了!兒子才不是去出洋相給人看的」
福團治回顧著。
「雖然至今為止都被說是"做著不錯的事呢",這下終於知道原來也有反對的家庭」
另一方面,也有過「明明是免費教導,為什麼要被說成這樣,不行啊」的想法,甚至還覺得「還是放棄吧」。當決定要去把教室鎖起來,去拿鑰匙時,那位學生在那裡等著。笑咪咪的說著「老師!」揮著手。

(撮影:宗石佳子)
「気が変わりました。彼(生徒)は昼間の仕事を終えて会社からここへ飛んできた……。親は反対してても子どもはこれだけ習いたいと思ってくれてるんや。親は親、子は子や」
福団治は、何事もなかったように「ほな、やろか」と、稽古に入った。
1995年12月、国立文楽劇場(大阪市)で手話落語の披露公演が行われた。舞台には、その彼の姿があった。そして客席には反対していた父親の姿。父親は、息子が高座に上がった姿を目にすると、ハンカチで目頭を押さえていたという。
福団治はしみじみと回想する。
「教室をやめんと続けてて良かったとつくづく思いました」
「我改變想法了。他(學生)白天的工作結束後,就從公司衝了過來......。即使家長反對,小孩覺得只有這個是他想要學的。家長是家長,小孩是小孩」
福團治裝做一副沒事的樣子「那麼,來吧」,開始了練習。
19995年12月,在國立文樂劇場(大阪市)舉行了手語相聲的公演。舞台上,他出現了。而台下則是反對著他的父親的身影。父親看到兒子坐在高台上的樣貌,用著手帕壓住了眼角。
福團治深切地回想著。
「仔細想想沒有把教室停掉繼續下去真的是太好了」

(撮影:宗石佳子)
活躍する手話落語の弟子たち
これまでに教えた生徒は200人を超える。手話落語の弟子は「宇宙亭」一門とし、名前をつけた弟子は約40人に上る。現在、福団治の指導を受けた宇宙亭福だんご、笑任、新福らが活躍している。
手話落語を始めて36年というベテラン・宇宙亭福だんごは、現在55歳。学校やショッピングモールで開かれる手話寄席で、師匠とともに舞台に上がっている。
活躍的手語相聲弟子們
至今為止教過的學生超過200人。手語相聲的弟子作為「宇宙亭」的門生,有名字的弟子上升到了約40人。目前,接受福團治指導的宇宙亭福團子、笑任、新福等活躍中。
距離手語相聲開始已經36年的老手・宇宙亭福團子,現年55歲。在學校和購物中心等開設的手語演藝場,伴隨著老師登上了舞台。

ショッピングモールで手話落語を披露する宇宙亭福だんご(撮影:三重テレビ)
手話を学んでいた19歳の時、すでに手話落語に取り組んでいた先輩から「顔が面白いから手話落語にピッタリ」と引っ張られたのがきっかけだった。
手話落語を披露し、勤めていた会社で人気者になった。今では多くのファンもついている。
「オチをつくるのが難しいですが、自分は表情がいいと言ってもらうことが多い。手話と出合って良かったと思っています」
福だんご以外の弟子も、忙しい日々を送っている。福団治のマネジャー、今井三紗子さんは「(弟子たちに)福団治が仕事を頼んでも断ってくるんです」と笑う。
福団治と弟子たちの活動で、手話落語のすそ野は着実に広がっている。
學了手語19歲的時候,被早已致力於手語相聲的前輩「臉很有趣,一定跟手語相聲很配」拉攏了是契機。
展現手語相聲,在任職的公司大受歡迎。現在仍有許多粉絲跟隨著。
「雖然要作出結尾很困難,但常常被說我的表情很棒。我認為能夠遇到手語真的太棒了」
福團子以外的弟子也每天都過著忙碌的生活。福團治的經紀人,今井三紗笑著說:「就算(弟子們)委託福團治工作也會拒絕」
因福團治吉他的弟子們的活動,手語相聲的影響力正切實的廣泛傳開。
「人生観が変わった」
手話落語は、古典落語を演じる上でも役立ったと福団治は語る。
「聴覚障がい者とふれ合う中で人生観が変わったんです。彼らと出会ったのをきっかけに、人情というものを重んじるようになりました」
「人生觀改變了」
手語相聲,就算是表演古典像聲也能幫上忙,福團治說了。
「與聽覺障礙者接觸中改變了人生觀。和他們的相遇作為契機,變得更重視人情這種的東西了」

(撮影:宗石佳子)
福団治がよく高座にかける演目は「藪入り」「蜆(しじみ)売り」「ねずみ穴」「南京屋政談」などのいわゆる人情噺である。人情噺とは、笑いに力点を置くのではなく、親子の情愛や家族の絆、人間同士の心のふれ合いを描いたものだ。
手話落語のほかにも、福団治を人情噺に傾倒させる出来事があった。1982年、次男の晃次くんを白血病で亡くしたことだ。当時、小学2年生。8歳だった。
福團治常常在高台上的節目有「藪入り」「蜆(しじみ)売り」「ねずみ穴」「南京屋政談」等,也就是人情事。人情事,並不是把焦點放在笑,而是描述親子之間的愛、家族的羈絆、同志之間內心的接觸等。
手語相聲以外的也有,也曾發生了讓福團治傾心的人情事。1982年,二子的晃次因白血病去世。當時,僅僅只有小學2年級,8歲。

1982年に晃次くんを亡くし、2018年には長年連れ添った妻で、ものまね歌謡芸人・翠みち代さんを亡くした(撮影:宗石佳子)
「どれだけ悔やんで嘆いたか。何日も思い悲しみにふけっていたのを思い出します。目に入れても痛くない分身を亡くしました。それで自然と人情噺に溶け込んでいったんです。演じているのではなく、心の神髄を表現できるようになった。決して息子は『無』ではなかった。僕に人情噺という大きなものを与えてくれたから」
3年ぶりに奉公から帰ってくる息子(藪入り)、寒い中で貝を売って歩く少年(蜆売り)など、福団治の噺には子どもが多く登場する。それは息子の死と無縁ではないのだろう。
「到底有多悔恨感嘆呢。不管過多久都能回想起當初沉浸於感傷的心情。最疼愛的小孩的分身死了。自然地融入人情事。並不是演的,把心的精隨表現出來。兒子絕對沒有變成『無』。他給了我人情事這樣偉大的東西」
奉公職相隔3年才回來的兒子(藪入り)、寒冷中步行賣著貝的少年(蜆売り)等,福團治的故事常常出現小孩。相信這與他兒子之死並不無緣吧。

(撮影:宗石佳子)
福団治が手話落語という世界を切り開いて40年近く。その将来をどう考えているのか。
「以前は福祉の分野での社会貢献という位置付けやったんです。でも今は健常者も含め多くの人が普通の娯楽として手話落語を見に来てくれるようになりました。将来は手話落語が電波で流れて、それを一般の視聴者が普通に楽しんでくれる。それが私の夢ですな。そして、そういう時は必ず来ます」
福團治開拓了手語相聲的世界將近40年。對於它的未來怎麼想呢?
「以前福祉的領域是被份類為社會貢獻這樣的定位。但如今包括一般人也變得把手語相聲,當作普通的娛樂來觀賞。未來手語相聲將會用電流來流動,讓一般的觀眾平常也能的感到快樂。這就是我的夢想。並且,一定會實現」

(撮影:宗石佳子)
桂福団治(かつら・ふくだんじ)
1940年、三重県四日市市生まれ。60年、三代目桂春団治に入門。一春、小春を経て73年、四代目桂福団治を襲名。78年、手話落語を考案し、81年に手話落語教室を開校。以来、手話落語の第一人者として活動する。81年、「上方お笑い大賞功労賞」受賞。98年、「文化庁芸術祭演芸部門優秀賞」受賞。関西演芸協会第10代会長、上方落語協会相談役。2019年10月6日、四日市市文化会館で開かれる第16回文治まつりに出演。10月26日には大阪松竹座で桂福団治芸歴60年記念公演を行う。
1940年、三重県四日市市生まれ。60年、三代目桂春団治に入門。一春、小春を経て73年、四代目桂福団治を襲名。78年、手話落語を考案し、81年に手話落語教室を開校。以来、手話落語の第一人者として活動する。81年、「上方お笑い大賞功労賞」受賞。98年、「文化庁芸術祭演芸部門優秀賞」受賞。関西演芸協会第10代会長、上方落語協会相談役。2019年10月6日、四日市市文化会館で開かれる第16回文治まつりに出演。10月26日には大阪松竹座で桂福団治芸歴60年記念公演を行う。
桂福團治
1940年,在三重縣四日市市出生。60年,拜第三代桂春團治為師。經過一春、小春,73年,繼承第四代桂福團治襲名。78年設計手語相聲,81年開設手語相聲教室。以來,作為手語相聲中的權威活動。81年,獲得「上方搞笑大獎功勞獎」。98年,獲得「文化藝術祭演藝部門優秀獎」。關西演藝協會第十代會長,上方相聲協會顧問。2019年10月6日,將在四日市市文化會館舉辦第16回文治祭中演出。10月26日在大阪松竹座進行桂福團治的60年紀念公演。
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